2008年

ーーー11/4ーーー 安曇野スタイルの結果

 先週の金曜から連休にかけて、「安曇野スタイル2008」のイベントがあった。「安曇野スタイル」についてご存知ない方は、2005年11月のマルタケ雑記を参照願いたい。私は安曇野スタイルが発足した当初から関わっていて、もう5年目になる。

 さて、期間中の工房公開であるが、三年前と一昨年は工房と二階の事務所を解放した。工房を見てもらった後、事務所に展示した作品を見てもらう形である。

 三年前はほとんど客が来なかったので、このやり方で問題は無かったが、一昨年は日数を4日間に増やしたこともあって、100名の来場者があり、てんてこ舞いとなった。それで昨年は、事務所の代わりに母屋を解放し、作品の展示を行った。母屋の方が格段にスペースが大きいからである。

 昨年のイベントを終えて、いくつかの反省点が有った。母屋で展示をすると、身構えてしまう客がいた。他人の住宅に上がり込むことに、いささかの抵抗感があるのは理解できる。また、作品をそれと認識しない客もいた。家具は実用品なので、生活の場に置くと溶け込んでしまって、目立たないのかも知れない。さらに、工房と母屋は距離があるので、工房担当として技術専門校の木工科の学生にアルバイトを頼んだが、工房の案内を自分ができないというもどかしさが有った。

 今回は、工房のみで行うことにした。それなら目が行き届くし、私一人で対応が出来る。

 工房で展示をするとなると、まず片付けなければならない。それから、機械を移動して、展示スペースを作る必要がある。それらの作業に一日半かかった。重さ800キロの自動鉋盤を移動するときに、不用意に力を入れたら、背中にズキッと痛みが走った。

 全てのセッティングが終わると、なかなか良い感じになった。作品展示と平行して、製作過程のものも見てもらおうと思い、手加工ができる状態まで整えた椅子の部材を用意した。客が来ない時にその加工をすれば、時間が無駄にならないとの思惑もあった。

 蓋を開けてみると、客の入りは思わしくなかった。前半の二日間を終えて、14人の来場者しか無かった。昨年は四日間で70名を数えたが、それには遠く及ばない結果になることが予想された。その反面、椅子の加工は着々と進んだ。

 ほとんど諦めかけていた最終日は、隅に押しやっていた機械を使える場所まで引っ張り出し、本格的な仕事モードにしてしまった。例の椅子は、手加工で出来る範囲を終えてしまったからである。そうしたら、どういうわけか客が断続的に来るようになった。機械加工をすると木の臭いが立つ。それを感じて喜ぶ客もいた。私は、木屑が付いた作業服で応対をした。それまでの三日間よりも、リラックスして接客している自分を感じた。

 最終結果として、60人の来場者だった。昨年より10人少ないが、まあ満足の出来る人数だったと思う。人数だけでなく、客の反応といった中身も問題だが、何人かの客は深い関心を示してくれたように感じた。中には、私自身がこれまで気付かなかった切り口で作品を評価してくれた人もいて、有り難かった。

 ところで、住宅設備関係の仕事とおぼしき男性が来た。歳のころは私と同じくらい。展示品のアームチェアーCatに座って、「これほど高価な物を作っていれば、食うに困ることは無いだろう」と言った。私は、「高くても売れなければ仕方ない。いや、高いから売れないのですよ」と返した。すると、「でも、丹精こめて作った物を、安売りすることはできないね。そりゃあ切ないよ。オレには分かる、その気持ちが」と言った。



ーー−11/11−ーー 夫婦登山

 この半月の間に二度、家内と近くの山を登りに行った。

 家内は若い頃、会社の登山サークルに所属し、男性顔負けのスタミナと、脅威の食欲で周りの者を驚かせる存在であった。だから、登山の心得はある。しかし十年前に家族登山をして以来、さっぱり遠ざかっていた。それがこの秋になって、山に登りたいと言い出した。

 私は時々山に登っているし、日常的にランニングなどをしているので、何時でも山に行く用意はある。しかし家内は、山はおろか、日頃運動らしいことは何もしていない。しかも最近体重が増えている。そんな体で山に登れるか、不安は本人が一番身に染みて感じているはずだ。

 先月末、とりあえず手軽に登れる山として、鍬ノ峰に行ってみた。安曇平の北西部にあるこの山は、車で林道の奥まで行けば、一時間半ほどの歩きで山頂に立てる。

 体を持ち上げるだけでも大変だろうから、荷物は全て私が持った。家内はナップサックにタオルとティッシュくらいを入れて背負った。完全な空身は、昔山登りをしたプライドが許さないのだろう。

 その程度の山であるが、ちゃんと登って降りられるかは、やってみなければ分からない。足が痛いなどと言い出したら、すぐに引き返さなければならない。だが家内は、事前にたらたら述べた予防線的コメントとは裏腹に、思いのほか元気であった。景色を楽しむ余裕も見られた。

 その登山で気を良くしたようである。また山に行きたいと言った。十年間、そんな事は一度も無かったのに、どういう心境の変化だろう。ともあれ、健康には良いし、気晴らしにもなるだろうから、歓迎すべきことではある。家内の望みに付き合って、一日を休みにして困るほど仕事が混んでいる私でもない。

 先週の水曜日、こんどは金松寺山から天狗岩のコースを登りに行った。松本の西に位置する山である。金松寺山の登りが約二時間、さらに天狗岩までが一時間ほどである。

 前回は運動靴で登ったので、足元が滑って不快だったそうである。今回は、物置から昔の登山靴を引っ張り出した。それがうまくフィットしないらしく、登り始めてしばらくすると、靴ずれが痛いと言い出した。家内がそんな調子なので、金松寺山の山頂で進退を迷ったが、思い切って天狗岩まで行くことに決めた。

 気が付くと、後ろを歩いている家内の姿が見えなくなった。足が痛いので、休み休み登っているのかと思った。時間が押しているので、私は先に山頂に着いて湯でも沸かして待とうと思った。そうしたら、遠くから家内の声がした。先に行かずに待っててくれと言う。私はその場に立ち止まって待った。

 思っていたより距離が空いていたようである。ずいぶん経ってから家内の姿が現れた。私に会うと家内は、置いていかれて不安だったと不平を述べた。この程度のことで不安になるような女ではなかったはずだと、私は少し驚いた。

 山頂には私たちだけだった。展望が素晴らしかった。湯を沸かして昼食を取った。地面にビニールを敷いて、二人きりのままごと遊びのようだった。突然風が吹いて、握り飯を包むために用意した海苔が宙に舞った。二人そろって慌てた姿が滑稽だった。青く重なる山並みの向こうに、乗鞍岳と御岳が見えた。ススキの穂が逆光の中に揺れていた。

 


 山頂の脇にある天狗岩の岩頭で、持参した笛を吹いた。私は山に行くときは楽器を持参する。今回は、ティン・ホイッスル(ブリキの縦笛)を持って行った。この楽器は、軽くコンパクトで、しかも安価なので気がねなく持参できる。松本平を見下ろす断崖の岩場の手前で、家内は尻込みをした。私が岩の上でポーズを作り、写真を頼むと、「危ないからあまりそっちに行かないで」と言った。




 下山は家内を先に歩かせた。下り坂で家内は調子づいた。「下りの方が靴ずれが痛くないのよ」などと言いながら、小走りに飛ばした。頼みもしないのに走って降りるこの張り切りようは何だろう。そのおかげで、私は右膝に少し痛みを覚えた。でも、「ゆっくり行ってくれ」と言い出しかねて、黙って後ろについていった。

 林道に出てから車までの三十分ほどは、ゆっくりとしたペースに戻った。歩きながら笛を吹いた。「小さい秋見つけた」のメロディーを奏でた。周りの林は、カラマツの黄葉と、針葉樹の深い緑のコントラストが綺麗だった。

 帰路、三郷の広大なリンゴ園の中を通過した。大粒の真っ赤なリンゴが、枝もたわわに実っていた。家内が、少し欲しいと言った。ちょうど道端で摘果している農家の人がいたので、車を停めて二十玉ほど買い求めた。以前は、車を運転しているときに寄り道をするのが嫌いだった私だが、最近はさほど抵抗感が無くなった。

 最後に、堀金の温泉施設に立ち寄った。露天風呂から望む夕暮れの常念岳が見事だった。



ーー−11/18−ーー 幸せにする家具

 
来月の頭に、千葉で個展を予定している。会場は、私が以前勤めていた会社のすぐそばにある。正直に言えば、その会社の社員をターゲットにした展示会である。もちろん一般の方もお迎えするが、おそらく比率は大幅に社員側に傾くであろう。

 このところ、世の中の不況を反映してか、仕事が上手く回らなくなった。こういう仕事に波や凸凹はつきものだと思う。しかし、あまり悠長にしていられない状況になってきた。その打開策として、元の会社の友人たちの勧めで、この展示会をやることになった。展示会で成功する秘訣は、知名度が浸みた場所を選ぶことである。その意味では、的を得た企画だと思う。

 18年前に木工業を始めた当初、親戚、友人からの注文が多かった。それは有り難いことではあったが、内心気まずい部分も有った。知り合いと言うだけで、身びいきな動機で注文をくれるように感じ、恥ずかしいような、寂しいような気持ちになったのである。実力で広く世間から仕事を取れるようになりたいと焦ったりもした。そんな風に考えること自体、まことに駆け出しだったと、今から思うと赤面の至りである。

 最近は、知人だろうが友人だろうが、仕事を頂くのは大歓迎である。それは、単にビジネスとしての割り切り方を身に付けたという事では無い。この18年の間に、作家としての自分が変貌したためだと思う。ひとことで言うならば、作品に対する自信が付いたことによるのだと思う。

 作品の方向性が定まり、それに対する一定の評価を得るまでには、年月がかかる。それは、地図を持たずに荒野を歩むような、行き先の定まらない旅路である。確固とした技術があり、きちんとした品物作り出すことができたとしても、それがどのような意味を持つのかは、他人にその判断が委ねられる。他人は様々であるから、その反応を汲み取って自らの制作活動に生かすには、多くの経験を重ねなければならない。

 駆け出しの頃から、最大限の努力をして、まともな品質の品物を作ってきた。その方針に揺らぎは無い。逆に言うと、恥ずかしい物を作ってはいけないという、戒めがあった。しかし、自分では満足していても、本当に値打ちのある物を作っているのだろうかという不安が付きまとっていた。要するに自信が無かったのである。そういう事を意に介さない木工家もいるが、私は気弱に思い悩むタイプであった。

 私の家具は使う人を幸せにする、と今では思う。年月を重ねていくうちに、ようやくその事を理解した。使って頂いているお客様の、多くのご意見から、それを感じるようになった。また、自分が作った家具を自宅で使い、あるいは家族が私の作品と深く親しむ様子を見るうちに、それを確信した。愚鈍のようにして続けてきた仕事に対して、やっと自分で嬉しい評価が出来るようになった。

 人を幸せにする家具なのだから、多くの人に使って貰いたい。知人、友人という、私にとって大切な関係にある人たちには、なおのことその幸せを感じて貰いたい。

 そんな風に思えるようになった自分に、また一区切りの進歩を感じ、幸せに思うこの頃である。 



ーー−11/25−ーー 落ちこぼれの役割り

 
いくつかの料理が並んだとき、好きなものから食べるか、嫌いなものから食べるかで、その人の性格が分かるという。私は好きなものから食べる方だと思う。しかし、これが木工作業となると話は違う。

 木工作品を作る場合、ストックできるものであれば、幾つかをまとめて作るのが基本である。その方が能率が良いし、選択の幅が広がるので、木目や色目の合わせもやり易くなるからだ。

 多数の作品を作るとき、その部材を加工して揃えていく段階で、質の劣るものが出てくる場合がある。材に変色があるものや、小さな節や虫穴があるものなどである。そういうものはまとめて、一つのセットにする。そのセットは、言わば「落ちこぼれ組」である。程度にもよるが、そういうセットは、最終的に商品にならないこともある。

 さて多数のセットを順番に加工する際に、一番悪いセットから始めることが重要である。これが冒頭に述べた「嫌いなものから食べる」の例えである。加工は悪い材から始め、良い材は後回しにする。なぜか。

 加工にミスは付き物である。どんなに注意をしても、ミスは起こる。ミスをしたと気付いたとき、その部材が優良な材であったら嘆かわしい。だから、悪い材から始めるのである。

 また、仕上がりの精度の予測がつきにくい加工もある。やってみなければ分からないという加工である。その場合も、悪い材から始める。精度がでなかったら、廃棄すれば良い。それを捨石にして、他の部材が救われる。

 「落ちこぼれ組」の存在価値は大きいのである。そういうセットが一つ入っていると、気持ちが楽である。余計な緊張をしなくて済むので、かえってミスをしなかったりもする。

 注文で決まった数のものを作るときも、おのずと部材の優劣に目が行く。廃棄する余裕は無くても、何かの突発的な事態に備えて、劣った材から加工をする。慌てて作業をするときなど、その順番を間違えることがある。それがたまたま悪い結果に繋がったときは、「馬鹿者っ」と自分を怒鳴りつけたくなる。




 
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